海外でスポーツ指導者
今の仕事に至るまで
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現在僕は、ブータンでスポーツの指導者をしています。
ブータンオリンピック委員会の傘下である組織と、直接契約を交わしています。 
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僕は現在外国在住で、外国人へのスポーツ指導という仕事。
日本で生活していては、なかなか巡り会わないような仕事をしています。

少し珍しい仕事をしているわけなので、現在の仕事に至るまでの経緯を紹介してみようと思います。




日本を出たきっかけ

僕は大学卒業時点でも英語がほとんど話せず、海外での生活経験はありませんでした。
ただ、学生時代に海外遠征や海外派遣ボランティアを経験しており、外国へ行ったこと(もちろん1人ではないです)は数回ありました。
そのため、もともと外国への興味はありました。

そこで大学卒業前に進路に悩み、考え調べて辿り着いた仕事が『青年海外協力隊』でした。

当時の葛藤はこちらにまとめました↓
 

このようなきっかけで、大学卒業後すぐ青年海外協力隊として、海外へ派遣されることになりました。


JICA青年海外協力隊

青年海外協力隊として僕は、ブータンに派遣されました。
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仕事はスポーツ隊員。
現在と同じように、スポーツの指導者をしていました。
 
当時は青年海外協力隊として「JICA」という日本の組織と契約をしていました。
JICAから日本円で日本の口座に給料をもらい、生活費は別でUSドルを、現地口座へに振り込みで受け取っていました。
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派遣されていたのはブータンオリンピック委員会ですが、雇っていたのはJICAです。
定期的な報告会や、様々な手続きはJICAのブータン事務所で行います。

基本的に活動は、配属先であるブータンオリンピック委員会傘下の協会で行います。


当時の配属先

僕がJICAによって派遣されたのは、ブータン柔道協会です。
日頃の柔道指導や遠征への帯同、国内大会の計画・運営などが主な仕事です。

ブータンでの柔道は、まだ10年という浅い歴史しかなく柔道人口は約100名マイナースポーツです。
ブータン人指導者は1名のみで、指導者の彼と僕の2人でブータンの全柔道選手の指導します。
とはいえ、柔道チームはたったの2チーム。不可能ではないです。

このようにブータンでの柔道は歴史の浅いスポーツであり、柔道協会という組織はまだまだ小さく活動資金は非常に少ないです。
少ない資金を使い、年に数回の遠征や必要な設備の購入に使います。


コロナによる活動終了

青年海外協力隊の活動は原則2年間であり、僕の派遣期間は2018年10月〜2020年10月でした。
しかしみなさんご存知の通り、2020年3月に発見された新型コロナウイルスが猛威を奮い、世界的な大問題に発展しました。
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そして2020年4月、世界中に派遣されている青年海外協力隊員全員の強制帰国が発令されました。

当時はコロナウイルス感染者0名の国が多く、日本と比べて安全な国がほとんどでした。ブータンもそうです。
しかしながら、派遣されているのは発展途上国。医療環境が十分に整っていない国が多く、もし万が一感染してしまったら大変なことになるかもしれません。
また飛行機が止まってしまっては、万が一の際に帰国することもできません。

こんな理由で、緊急帰国が決まりました。 
そしてコロナウイルスが終息する気配はなく、2020年10月の任期満了を迎えてしまいました。 


協会からのオファー

上記の理由で、 2年間の活動期間を全うすることなく任期終了を迎えてしまいました。
しかしその後、当時の配属先であったブータン柔道協会から「ブータンで柔道指導を続けてくれないか」とのオファーをいただきました。

上記した通り、ブータン柔道協会はまだまだ小さな協会であり、活動資金は非常に少ないです。正直、指導者に支払うようなお金はありません。指導者を個人契約で雇うとしたら、他で必要な遠征費などを削ることになります。

そんな状況を知っていたので僕自身は困惑しました。でも他の必要経費をなんとか切り詰めてでも、僕を雇う価値があると判断しての決断だったようです。


僕自身の葛藤

僕としては、ブータンで出会った教え子たちはみんな一生懸命で、育てがいのある子どもたちです。将来が楽しみで、長い目で見て指導していきたいという考えはありました。

しかしその反面、迷いもありました。

ブータン柔道協会は、僕の協力隊当時の給料を考慮して、ブータン国内で考えると十分な額の給料を提示してくれました。とはいえ、日本円換算するとたいした額ではありません

当時日本では、老後2000万円問題が話題になりつつありました。
またそれでなくても、日本で生きていくのにはお金が必要です。大学卒業後すぐに外国に出た僕には、ほとんど貯金がありませんでした。

また、そもそも日本で柔道指導や子どもたちを育てる仕事をしたいという考えがあり、その経験を積むことを兼ねて選んだ青年海外協力隊の仕事でした。
今こそ日本で働き始めるタイミングなんじゃないか」とも思いました。

さらに、日本には一緒に将来を考えたい相手もいます。

そんな葛藤をしている間中、ブータン柔道協会からはずっと熱烈なアプローチがありました。
「今のブータン柔道には、あなたの力が必要だ」と。また、子どもたちからも沢山のメッセージをもらいました。「先生、元気ですか?」「また教えて欲しいです」「また会いたいです」。

さらにこの仕事は若いうちにしかできないこと。
行きたい気持ちがあるのにも関わらずやめてしまったら、一生後悔するとも思いました。


結局散々悩んだ末、全部を諦められず、ブータンに戻る道を選びました。
  • ブータンでの活動をコロナによる中途半端な形で終えたくない。
  • 日本での子どもを育てる仕事は、その後でやる。
  • 将来的なお金のために、今は自分の価値を高める。
  • 一緒に将来を考えたい相手には、話をして待っててもらう。
 全部を諦めずに、欲張りに自分の意思を貫くことにしました。


オファーに至った要因

上記の通り、ブータン柔道協会にはほとんど活動資金がありません。にも関わらず、他を差し置いても僕が必要だと判断をしていただけました。

僕は大学卒業後に青年海外協力隊になったので、社会経験はありません。
指導をはじめたのはブータンに来てからであり、指導力も素人に毛が生えた程度です。
学生時代、日本のトップレベルで活躍していた選手でもありませんでした。
さらに英語ですら、まだまだ十分に使いこなせていません。

一般的に考えたら、こんな25歳の若造に貴重な資金を払うのはとてもいい判断とは思えません。

じゃあなんでそう判断してもらえたのか。

情熱

これが最も大きな要因だったそうです。
僕には指導者の経験もなければトップレベルの実力もない。さらに十分な英語力もない。
だから協力隊としての活動中は、ただひたすらにがむしゃらにやりました。

自分が経験してきた技を教え、自分が考えたことを話し、自分がやってきたトレーニングを一緒にやる。

正直言うと僕の取り柄は若さだけなので、練習は全部僕もやります。
トレーニングはまず自分で試し、やって見せた上で子どもにやらせます。そして誰よりも自分がトレーニングをやります。

もはや指導者というよりチームメイトです。

そして年齢の近さもあり、できる限り子どもたちと関わりました。喋れもしない英語で無理やり。
だから子どもたちも僕を認め、求めてくれたのかもしれません。


最後に

たくさんの熱い思いに動かされ、僕はブータンでの活動を再開することに決めました。

今回伝えたいのは、「僕ってすごいだろ、こんなに求められる人間なんだぜ!」という自慢話ではないです。

実は今回の僕のように『協力隊での活動が評価されその後の契約に結びつく』ことは、珍しくないんです。
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聞いた話によると、協力隊としての活動が評価されて、任期満了後に現地の経営者として雇われた人もいるんだとか。
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直接同じ仕事場ではなくても、協力隊での活動時に培った語学力や人脈を活かして、同じ国の大手企業に就職した人もたくさんいます。

世界銀行国際連合大使館などに就職が決まった人も周りにいました。  


協力隊は、外国で仕事をすることになります。
毎日残業で遅くまで働いたり 、休日がないなんてことはまずありません。
つまり、自由に使える自分の時間がたくさんあります。

この時間を利用して、英語の勉強をしたり資格を取得したり、就職活動をすることができます。
ひたすら現地の人と関わって、人脈を広げることもできます。
自己研鑽に多くの時間を注ぎ込める期間です。


青年海外協力隊という仕事は、語学力適応能力新たな考え方など、様々な力が身につく仕事です。
また、大きな挑戦をできる環境でもあります。 
 
そして何より、さらに広い世界と自分が繋がる「可能性」を秘めた仕事だと僕は思います。



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